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March 28, 2005

祖父へのつぐないアレコレ

更新が遅れてすみません。。。

アジアの真実さん ・知られざる北方領土の戦い ~北海道を守った人々~

---------<引用 始め>------------------------------------------
 ソ連軍は戦後北海道の占領まで計画し、終戦8月15日以降になって北方領土へ攻撃をしてきたのです。そこで勇敢に防衛をしてくれた日本軍と民間人の皆様。彼らのおかげで北海道は守られたのかもしれません。
---------<引用 終り>------------------------------------------

上記のエントリを読んで衝撃をうけた。

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【記事の途中ですが、、、お願い】
このエントリーは、途中は読み飛ばしていただいていっこうに構いませんが、文末の赤字箇所だけは必ずお読みください。
このエントリーは私の記憶が誤認であったことを記したものであり、皆様に事実を認識していただくには末文の赤字をお読みいただく必要があるためです。考察の過程で得た資料は、誤認にいたるまでの過程として参考までに載せてあります。
時間の無い方は読み飛ばしていただいた方が精神衛生上、良いかもしれません。
私の誤認が原因で皆様にお手数をお掛けします事を深くお詫び申し上げます。
---------------------------------------------------

前にも書いたが、終戦後、祖父はソ連兵に銃を向けられた。

私はこの件は個人的なトラブルによるものだと信じ込んでいた。しかし、アジアの真実さんのエントリで、そうではないかもしれない事がわかった。いわゆる8月15日の終戦日以後も北方で戦争は続いていたのだ。

10年以上も前に祖父は亡くなったが、生前、この事を語ったのは酔っ払った時ぐらいで、しかも2回くらいしかない。そんな時すら私は「また年寄りの昔話が始まった・・・」としか思わなかった。

当時の北方の悲惨さも祖父たちの苦労も知らずに、大事な祖父の話しをきちんと聞かなかった。

じいさん、ごめんね。

祖父へのツグナイに祖父の事件の詳細を推測してみる。 そこで祖父の話しの中ではっきり憶えている事をあげてみる。

1)ソ連兵に銃をむけられた。その時のことを祖父は「自分は一度死にかけた」と言っていた。
2)かばって助けてくれたのはソ連の女性。兵隊ではない。
3)終戦後の出来事。
4)祖父は日本兵

確実に記憶しているのは上記。

下記は祖父の言葉なのか後から私がイメージしたのかわからなくなっている事。

5)その場所は日本以外の地。満州だったような・・・
6)かばってくれた人は修道女

▼▼▼まずは場所の特定。▼▼▼

上記1)の考察、ソ連兵の存在しうる場所について考察してみる。 日本百科辞典 ソビエト連邦より

---------<引用 始め>------------------------------------------
第二次世界大戦では、はじめ独ソ不可侵条約を結んでいたが、のちにドイツの攻撃を受けたため連合国側として参戦し、独ソ戦に勝利した。日本とは日ソ中立条約を結んでいたが、アメリカとの首脳会談で結んだ密約(ヤルタ協定)に基づき、大戦末期の1945年8月8日になって日本との戦端を開き、千島列島や南樺太などの日本領や満州、朝鮮半島北部を占領。これがその後の北方領土問題、シベリア抑留問題のもとになった。
---------<引用 終り>------------------------------------------

地球史探訪:終戦後の日ソ激戦

---------<引用 始め>------------------------------------------
■8.スターリン、北海道侵攻を断念■
   (・・・省略・・・)  22日は、千島列島北端の占守島の日本軍との間で降伏文書 の調印が行われた翌日で、それ以南の諸島はほとんどが手つか ずの状態であり、また樺太では真岡近郊での戦闘の最中であっ た。日本軍の頑強な抵抗により、ソ連としては樺太と千島列島 の占領を優先するためには、もはや北海道をあきらめざるをえ ない状況に追い込まれたのである。
---------<引用 終り>------------------------------------------

上記からソ連兵が出兵したのは、千島列島、南樺太、満州、朝鮮半島で、北海道への侵攻は未遂。

祖父の出来事の発生地は千島列島、南樺太、満州、朝鮮半島のいずれかということになる。

050327次に2)の考察、ソ連の女性が存在しうる場所について考察してみる。

まずは樺太について。(左の地図の引用元「イッシーのホームページさん」都道府県市町村落書き帳 [4059] 2002 年 10 月 22 日 (火) 00:22:07 書込み

---------<引用 始め>------------------------------------------
戦時中の1944年頃から樺太庁はロシア人、ポーランド人を「ソ連の侵攻から保護する」と称し、大泊郡富内村大字喜美内(現チャパエヴォ村、コルサコフから北東に23キロに位置)のはずれの山の上を切り開き「ロシア村」という収容所を建設し、ここに移住させました。村の内部はロシア、タタール、ポーランドの3区画に分けられていたそうです。そこの居住環境は悪く、樺太庁が建てたバラックは狭いうえ雨漏りもし、土地は耕作に適しなかったそうです。終戦になり「ロシア村」にもソ連軍が来、男たちを通訳として使っていたそうですが、1948年春、ソ連政府はポーランド人のポーランドへの帰国を許可し、ほとんどのポーランド人は帰国したそうです。
---------<引用 終り>------------------------------------------

助けてくださった女性が住民だとしたら、この「ロシア村」が有力候補。この「ロシア村」があった大泊郡富内村大字喜美内(現チャパエヴォ村、コルサコフから北東に23キロに位置)は、豊原市のちょうど南東の境目あたり。 地球史探訪:終戦後の日ソ激戦

---------<引用 始め>------------------------------------------
■7.真岡近郊での戦闘■    (・・・省略・・・)  近くからの応援も得て、日本軍は23日2時頃まで抵抗を続 けた。その間、ソ連軍は航空機による豊原攻撃を行った。豊原 駅前広場には避難民数千人が集まっており、駅には大白旗を掲 げ、救急所の天幕には赤十字が明示してあるにもかかわらず、 爆弾5,6発、焼夷弾約20発の攻撃を受け、駅前の避難民に 100人以上の死者が出た。

■9.樺太、千島の占領完了■  24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、 日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ れにて樺太の占領は完了した。   (・・・省略・・・)
---------<引用 終り>------------------------------------------

樺太では女性とソ連軍が両方存在するのは豊原近郊のようだ。有力候補、豊原

次に満州 郷土の偉人 西崎キク

---------<引用 始め>------------------------------------------ ◇曠野の落日  20年8月4日、夫である了が現地で応召をうけ出征しました。終戦の11日前のことでした。その僅か5日後、8月9日ソ連軍の南下とともに、キクと峻は苦難に直面しました。そして8月15日、日本の敗戦。すでに満州を守る関東軍もなく、ソ連軍と匪賊の横行によって、北満州の開拓団は命の危機に貧していました。20年11月3日、キクや峻を含む老街基埼玉村開拓団は日本に帰国するため埼玉村を、出発してハルピン-新京-奉天と移動しました。途中20年12月13日、長男峻を引き揚げの中、奉天収容所で肺炎のため亡くし、その遺体を雪をかき分けて埋葬しなければなりませんでした。  21年6月1日、ようやくコロ島から輸送船V78号にのり、日本の舞鶴港に向け出発することができました。開拓村を出発した団員は、6月9日、ようやく埼玉県庁に到着しました。出発したとき492人いた団員で、埼玉県庁にたどり着いたのは、僅か133人でした。
---------<引用 終り>------------------------------------------

満州の一般市民の苦労には心が痛む。。。しかし、あれ?

そして8月15日、日本の敗戦。すでに満州を守る関東軍もなく、ソ連軍と匪賊の横行によって、北満州の開拓団は命の危機に貧していました。

終戦後のソ連兵との衝突は満州では起こらなかったの?

自分の記憶が心配になった。。。
で、実家に電話した。。。
で、自分の記憶が誤りだったと判明!

がーーーーーんっ!

祖父の件について再度整理してみる。父と母の話しを赤字で記す。

1)ソ連兵に銃をむけられた。その時のことを祖父は「自分は一度死にかけた」と言っていた。-->父も母も「知らない」。母は「おまえにだけ話したんじゃないの?じいさん、おまえにだけはオシャベリだったから」

2)かばって助けてくれたのはソ連の女性。兵隊ではない。-->同上。父も母も知らない出来事。

3)終戦後の出来事。-->「祖父は昭和14年に満州に行き終戦前に帰国したはず」とのこと。帰国時期は不明。

4)祖父は日本兵-->祖父は兵隊ではない。樹木の測量技師。技師として満州へ行くかわりに兵役を免除された。

5)その場所は日本以外の地。満州だったような・・・-->祖父は樹木の測量技師として満州のハルピンへ行った

6)かばってくれた人は修道女-->同上。父も母も知らない出来事。

この見事な記憶の間違いは一体どういうことだろう?

祖父の話は、誰か他人の話し?

それとも映画とか芝居のフィクション?

それを私が祖父の実話と勘違いした?

それとも一切が私の空想だった?

しかし、誤認とはいえこんなにハッキリとした記憶は何?動揺MAX~っ!

祖父が語った事件(フィクション?)、もうちょっと調べてみようと思う。鍵は昭和14年以降のハルピンにあるかもしれない。

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Comments

記述が生の声なので、大変興味深く読みました。
私の考えた事を少々。
日本国内でもそうですが、鉄路を作る為には、膨大の情報が必要です。
場所にも寄りますが、航空写真・GPSの無い時代なら、「マタギ・船頭」の技術が
絶対に必要になります。戦前のアイヌ人の測量集団の話を聞いた事があります。
また、車輌運行・整備を含めての技術者が必要です。(私の祖父もこれに該当してます)
日本は近隣の侵略したと言う国に、当時の最新の技術と設備を作っていることです。
搾取・略奪が目的だったら、何故こんな施設を作るのでしょうか? 不思議です。
世代的に1つの区切りを向えましたが、残留孤児の問題が暫らく報道されました。
大陸・半島からの引揚者は、大変苦労されたと聞いています。
極論かもしれませんが、突然・戦勝国になった国があり、追いはぎ同然だったらしいです。
昭和33年まで舞鶴港での、「引揚事業」が有った事は、混乱振りが伺えます。
厳密に言えば、8/15はポツダム宣言の受諾であって、昭和26年9/8サンフランシスコ条約
まで、自分なりに戦争は続いていたのだと思っています。

Posted by: MHOTOO | April 01, 2005 at 12:52 AM

>MHOTOOさん
コメントありがとうございます。
MHOTOOさんのおじい様も技術者だったのですね。貴重な情報をたくさんありがとうございました。

恥ずかしながら私は身内である祖父のことですら無関心でした。戦時中から戦後にかけて祖父たちの世代がどんな苦労をしてきたのか他人様の記録から知ったのは、ごく最近です。生前の祖父からきちんと話を聞いておけばよかった、とひたすら後悔の日々です。そして苦労して日本を守り支えてきた方々、命をおとされた方々へ感謝せずにはいられません。

自分自身の記憶の混乱の原因を突き止めるために祖父の足跡を調べようと思っておりますが、それは祖父や当時の先輩達への供養にもなるかも、と思っております。

それにしても8月15日前後の大陸・北方の邦人の受難は想像を絶するものがありますね。あちこちの記録を読みながら心が張り裂けそうになりました。

Posted by: kits | April 01, 2005 at 02:01 PM

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