December 01, 2005

ヤマト言葉は大事にしたいね

『ヒロさん日記』の「かんじに「こだわる」のはホドホドにしませんか?」 にインスパイアされて当エントリーを書く。。

『ヒロさん日記』のHiro-sanが言うように、漢字は文字そのものに意味を持っているので短い表記でニュアンスを最大に伝達できる便利さはある。

(例)
「パンチラを見た」(パンチラを目撃した)
「パンチラを観た」(パンチラを観賞した)
「パンチラを看た」(パンチラさん≪固有名詞≫を看護した)

注:2例目まではヒロさん日記より引用。3例目はkits創作。

Hiro-sanは、漢字とカナのバランスをさじ加減することで文章の個性が引き出せる日本語の特異性を言っているのだ(と思う)が、そういう自由度の高い日本語なのだから、わざわざ支那の差別意識あふるる『邪馬台国』とか『卑弥呼』を漢字表記しなくたっていいでない?ということにも触れている。

弥生時代の〝邪馬台国〟も〝卑弥呼〟も、もともとは中国の文献『魏志倭人伝』などによるもの。

、んで、随分前の『兼高かおる世界の旅』という番組で邪馬台国をテーマにしたことがあり、その放送内容が結構衝撃だったので憶えているんだけど、

その番組によると、、、

当時の支那では『邪馬台国』とは『邪馬台の国』という意味での記述であり、
当時の支那の発音で『邪馬台』は「ヤマトゥ」または「ヤマタゥ」と発音。

そして『卑弥呼』とは『卑弥のコ』、つまり『卑弥+(女性敬称)』という意味であり、
当時の支那の発音では『卑弥』は「ヒメ」に近い発音をするという。

言葉の異なる日本からの使者の話しを聞き取るのだから、

日本側の発音
 ↓
支那側のヒアリング
 ↓
支那側が発音に近い当て字で記述

という流れの中で

日本側が「ヤマトのヒメ」と発音したのを、

支那側が「ヤマタゥ国のヒメ女王」という意味に受取り、

結局、支那の歴史書には「邪馬台国の卑弥呼」という記述になった、

、、、とTV番組『世界の旅』は主張するのだ。

漢字の介在によりヤマト言葉の本来の意味が無くなってしまった典型が『邪馬台国』および『卑弥呼』なんじゃないのか?な。

びーちぇさんのブログ『ヲシテのクニ』では、ヤマト言葉本来の滋味あふるる意味合いが漢字に置き換わる事により無くなってしまった例が紹介されているが、今一度、ヤマト人のルーツを漢字抜きで探ってみるのも良い機会だ。

≪びーちぇさんのブログ『ヲシテのクニ』より≫

カミ・・・「祖」に近い意味合いであり自分の因って立つ処。「神」とは異なる。
タマシヰ・・・「
タマ(大自然、宇宙)」+「シヰ(この世、地球)」であり、親の「タマノヲ(遺伝子とか縁)」により「タマ」と「シヰ」が結ばれる。死ねば「タマ」は宇宙へ「シヰ」はこの世へ還元する。漢字の「魂」とは異なる。

参考までに、
ヤマトクニ・・・「
(強調)」「(真)」「(法)」。つまり法の精神によって実によくまとまったクニ

kitsの別館ブログ『Goodfinds』で「オランダせんべい」をご紹介中だ。

「オランダせんべい」の名前は2重の意味があり、

(1)「オランダ、つまりサラダ味(塩味)という舶来の味付けの斬新なせんべい」

という意味と、

(2)「おらんだ、東北弁で〝俺達〟のせんべい」

という意味がある。

もし東北弁が人々から忘れ去られたら、上記(2)の意味も消え去ってしまうのだろう。

まじ、へこむ。

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October 24, 2005

祖父のこと その3

次にソ連兵と祖父とのイザコザについて、会長さんに聞いてみた。。。

ソ連兵と祖父のイザコザとは、こうだ。

大陸に渡った祖父がソ連兵に銃を向けられ絶体絶命の窮地に陥ったが、ソ連の一般市民(修道女)が身を呈して助けてくれた、というお話。

私が幼い頃に祖父から聞いた話なのだが、今年の春に家族に聞いてみたところ、私の勘違いが次々と発覚。その〝勘違い〟とは、祖父を軍人だったと勘違いしたり、時期を終戦後と勘違いしたり。。。そして祖父はこのエピソードを私以外の家族には話していないようなのだ。つまり、私しか知らない話だったのだ。
このたび祖父のことを調べようと思い立ったのも、このイザコザが本当にあった出来事なのか、あるいはこの話の全てが私の勘違いなのか、その〝真実〟を知りたいと思ったから。

さて、会長さんへのインタビューを続けよう。

私は前述の祖父のエピソード(赤字の部分)を会長さんに話し、こんな事って有りうるのかと聞いてみた。

会長さんは「うむ・・」と納得したようにうなずき、話し始めた。

会長さんが満州に住み始めた直後の昭和13年頃、満州の治安は悪化していた。

会長さんの話に補足すると張鼓峰事件(日ソ軍事衝突)が発生したのが昭和13年。しかも張鼓峰の位置はロシアのポシエット湾と朝鮮の豆満江にはさまれた丘陵地帯、当時会長さんの開拓村のあった天橋嶺のすぐ下、そして祖父の住んでいた図門のすぐ東側である。すぐ近くで軍事衝突があれば、かなりの緊張状態でもあっただろう。

満鉄の各施設や開拓団が中国共産党の八路軍(匪賊)によって襲撃される事件が続発していたのだ。
八路軍の襲撃を防ぐために、開拓団の周囲は12尺(約4m弱)の高さで城壁のように囲い、自警団を組織して警戒していた。そして各家々には軍銃1丁が常備されていた。

会長さんも実際に襲撃を受け、小学校の裏の山に逃げ込んで一夜を明かしたそうだ。ちょうど季節は秋頃だったので、夜は冷え込み、暖を取るのに苦労したとのこと。

八路軍は、ひとしきり暴れた後、大抵は夜が明けると逃走していくらしい。いくら関東軍が追っても旧ソ連へ逃げられてしまうと、もう手出しが出来なかったという。

会長さんにいわせれば、彼らの目的は傀儡政権へのいやがらせ

(私の独り言・・・)八路軍といっても組織的な〝軍〟というよりは〝賊〟と呼ぶほうがふさわしい集団だったようだ。今でこそ有人ロケット大成功の中国共産党であるが、最初はこんなんセコい集団だったのよね。

この八路軍は旧ソ連で教育および訓練を受けており、ロシア人が八路軍に参加していることも充分あり得る、と会長さんは続けた。

(私の独り言・・・)・・・あるいは、祖父が『八路軍』と言ったのを私が『ロシア人』と聞き間違えた可能性もあるが・・・
どちらにしても、祖父が敵に銃を向けられるようなシチュエーションは充分すぎるくらいあったのだった。

そして、祖父を助けてくれた女性(修道女)については、会長さんはこう話してくれた。
八路軍といえども「幼い子を含む家族持ちを見逃してやってくれ」という多勢の声(声の正体がよくわからなかった)があれば、それに抗し切れなかったのではないか。また、祖父の居た図門から満鉄で西に向かえばハルピンというロシア人の街があり、図門を経由して旧ソ連とハルピンを往来するロシア人が多かったので、図門にロシア人の修道女が偶然に居た可能性は高い、とのこと。

会長さんの話を聞いて、祖父の話は裏づけは難しいが実際に起こりうる話である、ということがわかって良かった。。

戦場ではなかったものの、私が想像していた以上に祖父たちが住んでいた満州東北部は緊張状態であったのだ。

以上が会長さんのお話。非常に興味深い話の連続で、面白かった!

「秋田へ帰省した折にはまたおいで」と言われ、気をよくした私は、また来年の夏におじゃますることにした(笑)

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October 21, 2005

祖父のこと その2

mansyu_01

8日からの連休に秋田へ帰省したので、暇を見つけて、祖父の満州時代を知る地元の自治会長さんにお会いした。
自治会長さん(以降、会長さん)と私自身は面識がなかったので、親に電話であらかじめ事情を説明してもらってからご自宅へ伺った。

初対面のうえ、そんな昔話を聞きたいなんて「随分変わった人だなぁ」という思いが、口には出さないものの会長さんご夫妻の顔に書いてあるようで、何だか申し訳なかったが、快くお話くださったご夫妻にあらためて感謝です。

以下、会長さんのお話を元に祖父がどうやって満州へ渡ったのか、祖父の行く方を推測してみた。

昭和2年生まれの会長さんは満蒙林業開拓団として昭和12年頃に満州へ渡り、天橋嶺[テンキョウレイ]の開拓村に一家で居を構えた。しばらく後に、顔見知りの同郷の人間(祖父のこと)が近くの図門(正式にはニンベンに門)[トモン]に居ると聞いたという。満鉄(満州鉄道株式会社)の鉄道員になった会長さんは図門に配属されたこともあり、懐かしくなって祖父に会いに出向いた。それが昭和15年~18年頃。

つましい満州風の自宅に会長さんを招いた祖父は、どうやら新婚の様子だった。新妻と幼い子と同居しており、若かりし会長さんは羨ましく思ったという。

秋田県の開拓村でもなく、しかも家族と同居していることから、祖父は地域の開拓団に応募したのでも徴用でもなく、単独でひと旗上げに満州に渡ったのだろう、というのが会長さんの推測だ。

ウチの親の話を補足すると、祖母は昭和14年秋に日本で父を出産した頃、既に祖父は満州に渡っており、どうも祖父には祖母以外の女性がいたようなのだ。もしかしたら会長さんが出会った満州の新妻は祖母とは別人の私の見知らぬ母子だったのかもしれない。ただ、その頃の祖父と祖母は確かに新婚だったし、祖母が父を出産後に満州に渡り祖父と同居してたという可能性も捨てきれぬ。。。
まぁ、父は満州に行った事など無いと言っているので、、うーーん、、、愛人さんの可能性は高い。

祖父は満州に渡る前、秋田で木製建具の製造を行っていた。その図門でも同様の仕事をしていたようだ。

当時の満州は物価が高く日本人の給与も本土の3倍の物価であったようだ。3倍の給料物価の満州で稼ぎ、すぐ側の朝鮮半島(当時は朝鮮半島も本土扱い)でお金を使えば、そりゃ裕福な暮らしが可能であったろう。

会長さんが昭和19年に秋田へ一時帰った時には、既に祖父は満州を引き払い、秋田に帰って生活を始めていたようだ。その時、どんな判断で祖父が帰国を決めたのか今となっては確かめるすべは無が、戦況の悪化を肌で感じ商売の先行きに不安を感じて帰国したのではないか、と会長さんは言った。

まとめると。。。

祖父の満州へ渡った理由は、当初私が勘違いしていた徴兵でもなければ、ウチの家族が言っていた徴用でもなく、

自分の意志でひと旗上げに満州へ渡った

というのが真相のようだ。そして、敗戦前に日本へ戻った。

私が意外に思ったのは、戦時中も自由に満州と日本を行き来し、徴用も徴兵も免れた祖父のような人間もいたということ。私たちは、当時は制約された窮屈な生き方しか出来なかったと思い込んでいるが、ある程度は自由度が有ったのではないだろうか?それとも祖父がたまたま運が良かったのだろうか・・・。

次にソ連兵と祖父とのイザコザについて会長さんに聞いてみた。

その話は次回。

【2005.10.21 modified】訂正・追記しました。追記箇所はアンダーライン部分。

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September 30, 2005

祖父のこと その1

今年の春先から、ずっと心に留めていたテーマがある。
それは祖父の事だ。
以前のエントリで触れたが、生前に祖父が話してくれた満州での出来事(ソ連兵とトラブルがありソ連の一般女性に助けられ危機一髪助かった)が、実は私以外の家族は全く知らないことであり、私自身の記憶違いか聞き違いか、それとも祖父のフィクションなのか、すっかりミステリーになってしまったのだ。

(参考)祖父へのつぐないアレコレ

このミステリーを、どうにか解明したいと、ずーーーっつと思い続けてきた。
そこで故郷の市役所に問い合わせてみた。ソ連兵云々の話はひとまず伏せて、徴用者の満州渡海の事実関係だけに絞って聞いてみた。

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

能代市 総務部総務課 御中

いつもお世話様です。
私は能代市出身で、現在、茨城在中のkitsと申します。

さて、私は自分の祖父が満州へ渡った時の様子などを調べており、その関係資料などを集めたいと思っております。そこで、何かその時代の資料が市に残っていないかをお聞きしたく、窓口も分からないまま、とりあえず総務課殿宛メールした次第です。

私の祖父は戦時中の昭和14年(1939年)に満州のハルピンに徴兵を免れるかわりに材木の測量技師として渡海したようなのですが、なにぶん、その時代を知っている本人および関係者が既に亡くなっており、祖父が『どういう命令で』、『どういう手段で』、『いつからいつまで』満州にいたのか、そして、『なにをきっかけに』『どういう手段で帰国した』のか、全く不明なのです。
この辺の情報がほんの数行でも一言でも載っている資料があれば、ご紹介願えませんか?

はるか昔の話を唐突にお尋ねしてしまい、さぞ困惑されたでしょう。ただ、今年は敗戦60年です。孫である私達は、その当時現役だった祖父たちを生身の人間として知っている最後の世代です。私達には、祖父たちの記録を後世に語り伝える責任があるような気がしてなりません。

お忙しいところ大変恐縮ですが、何卒ご協力をお願いいたします。

【祖父の情報】
kits grandpa
明治44年(?)生まれ 昭和61年5月死亡
死亡時の住所:能代市●●
主な経歴:(株)kits木工所 創立 

*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

そして返事がきた。

kits 様

はじめまして。市史編さん室の●●と申します。
連絡が遅くなり、申し訳ありませんでした。

お問い合わせの件につき、市に残っている資料や市史編さん事業で収集した資料を調べてみましたが、残念ながら、傍証になるようなものすらほとんどない状況でした。

まず、昭和14年に材木の測量技師として満州へ渡海なさったという点を参考に、当時の秋田魁新報、北羽新報を調べたところ、以下の2つの記事を見つけました。

=============
昭和14年8月16日 秋田魁新報
・秋田県内初の徴用者2名が能代より出発

昭和15年5月14日 北羽新報
・満州林業視察団来能
=============

推測でしかありませんが、何か関係があるのではないでしょうか。こちらの記事の部分は、後ほどコピーをお送りします。

また、戦時中の能代における木材産業界の動向については、

=============
『能代木材産業史』(昭和54.12 能代木材産業連合会・発行)
p1228~1266

『能代のあゆみ-ふるさとの近代-』(昭和45.1 北羽新報社・発行)
p180~182
=============

などに記載されています。こちらはいずれも絶版となっており、能代市立図書館に蔵書のあるものですので、最寄りの図書館に相互貸借の申請をしてみてはいかがかと存じます。

上記以外では、残念ながら把握することはできませんでした。ご存知のこととは思いますが、戦後能代市は2度の大火に見舞われており、戦前、戦中の公文書がほとんど残っておりません。秋田県公文書館に戦時中の公文書がいくつか残っておりますが、いずれも徴兵関係が中心となっております。

「どういう命令で」「どういう手段で」「いつからいつまで」「なにをきっかけに」「どういう手段で帰国した」のか、以上に関しては、御祖父様が徴兵や、公的な立場で渡海しているのでなければ、私的な記録以外に御祖父様の動向を追うことは非常に難しいと思われます。ご実家には、日記や任命状、家族との手紙など、当時の資料が何か残されておりませんでしょうか?同時代のものであれば何でもかまいません。
一度、ぜひお確かめください。

あまりお役に立てず申し訳ございません。
今後の調査のご発展お祈りいたします。

***********************************************

後日、送付いただいた新聞記事とは、

昭和14年8月16日 秋田魁新報
・本県初の徴用者 能代町の両氏
能代●●町K(21)、山本郡●●O(21)両氏は今回勤務先の神奈川県川崎市の東洋製材株式会社において神奈川県知事から国民徴用者として〝白〟の令状に接して○○にむけ本県のトップを切り十五日郷里から出発することになった。K氏は十四日能代●町役場から祈願祭を執行し御守りを戴いて任地に向かったが「臆病者」として?召者と同様の祈願祭をうけたのはおそらく本県において初めてのことだろう。而して両氏ともに昭和十二年度の能代●●学校建築科出身である。
(kits注:文中?は印字が不鮮明で読み取り不可能)
(kits注:〝白〟令状とは所謂〝白紙〟のことで工場などへの徴用令状のこと)

昭和15年5月14日 北羽新報
・満州林業 来能視察団
満州林業株式会社の視察団一行十九名は十三日能代営林署にて木材部能代の各種状況を視察の上青森県に向かったが一行は内地人社員F氏外二名満人材木請負人十六名である。
(kits注:満人とは満州現地人。日本人の事は開拓民などと言っていた。)

能代市より戴いた新聞記事で少なくとも下記のことが推測できる。

・祖父は昭和14年8月16日以降に満州へ渡った
・もしかしたら「臆病者」扱いされたのかも

祖父は兵士ではないので資料が乏しいらしい。
今回、市役所の方のご尽力で見つけていただいた記事で、祖父が関っていたのは『満州林業』ではないか?という絞込みができたのは、小さいけれど一つの進歩であった。

・・・それにしても、こりゃハードな調査になりそうだよ、じいさん。

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August 29, 2005

土浦海軍予科練の話

cat_0508_29 ←茶ミ「どんな逆境でも日本人らしさは忘れないようにしたいニャリ」

終戦60周年ということで戦争関連の記事が新聞をにぎわせているが、産経新聞茨城版で下記記事を見つけた。

【幻の予科練秘話】(上)台湾と朝鮮半島の混合分隊 8月12日茨城版
【幻の予科練秘話】(中)終戦、そして耐乏生活 8月13日茨城版
【幻の予科練秘話】(下)消え行く当時の面影 8月15日茨城版

台湾と朝鮮半島からの海軍特別志願兵(海軍特別丙種飛行予科練習生)約100名からなる「土浦海軍航空隊 第109分隊」のお話。

(上)台湾と朝鮮半島の混合部隊 より引用

当時の指導教員で班長の●木(かぶらぎ)さんは「生活環境や民族意識の異なる隊員たちを合わせて訓練することは、非常に気苦労が多かった」と振り返った。
 そんな状況下、かぶらぎさんらは厳しい中にも思いやりの精神を持って、誠実に接したという。
 「上からの命令もあったが、朝鮮人、台湾人と差別感を持っての呼称は絶対使わないようにした。自分の弟たちの面倒をみるように接したと今でも自負している」

(中)終戦、そして耐乏生活 より引用

 下関駅で別れる際、鎮海出身隊員の代表から「今迄色々ト有難ウ御座居マシタ。同封ノ金額ハ我々ノ寸志デス。旅館代ニデモシテ下サイ。我等ハ男デス一死以テ東亜開放ノ為ニ奮闘致ス覚悟デアリマス。御健康ヲオ祈リ致シマス」(原文のまま)と書かれたメモと少額の現金を手渡された。

終戦間際の、しかも米軍による土浦海軍空爆直後の大変な時期である。にもかかわらず台湾や朝鮮から来た若者を気遣い、世話をし、心の交流を果たしたかぶらぎ氏の話を知るにつけ、戦争の悲惨さの傍にも人間同士の温かい交流は当たり前のようにあったのだ、という事に気付かされる。

出身が何処であれ分け隔てなく接しようとする「正義感」や「誠実さ」、そして下の者を親身に世話する「責任感」や「情」は、日本人の「あるべき姿」として常に心がけたいと思うし、また、現在の日本人よりは戦前戦中の日本人のほうが、はるかにそういう高い志を持っていたと思う。

そしてもう一つ思うことは、こういう話も戦争の一面として一つ一つ積み上げていって、日本人のバランスを失ったアレルギー的ともいえる今の歴史観をただしていく機運になればと思う。

≪用語解説≫
◆海軍特別志願兵・・・昭和18年8月 朝鮮と台湾に施行。年齢16年以上21年未満の者から徴集し採用し、兵種は水兵、整備兵、機関兵、工作兵、衛生兵、主計兵とし所管警備府司令長官が兵種を決定した。現役は3年、予備役は12年、予備役を終わり年齢45年に満つる年の3月31日まで第1国民兵に服した。なお朝鮮の志願兵・18歳以上は、第1回の募集400名に対して3000名が志願し、志願者は逐次増加した。
 (参考)大東亜戦争研究室

◆丙種飛行予科練習生・・・海軍内部の一般下士官兵の中から飛行科を志願し、選抜された者
  (参考)予科練記念館

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August 28, 2005

ホンジュラスって?

小泉首相の肖像入り硬貨発行へ=ホンジュラスが国交樹立70周年で 2005年 8月26日 (金) 15:17 (キャッシュ

 中米のホンジュラスで小泉純一郎首相の肖像入り記念硬貨が発行されることが26日、明らかになった。ホンジュラス政府が日本との外交関係樹立70周年を記念して作成するもので、12月6日にホンジュラスの日本大使館で開かれる天皇誕生日レセプションでお披露目される予定。  首相の肖像は硬貨の裏面に刻まれ、硬貨の値段は300から1000レンピーラ(日本円で約1760円から5720円)の間になる方向。政府関係者によると、海外で日本の政治家の肖像入りの硬貨が発行されるのは珍しいという。

へぇ~~~・・・ で、ホンジュラスって何処よ?

調べてみました。。。

ホンジュラス(Republic of Honduras)は中米にあり、対外債務および貿易赤字に悩む国。日本とは伝統的に友好関係にあり、日本から有償無償で援助を行っている。(基本知識はこちらから

≪年表≫

1935年2月  外交関係樹立。堀義貴駐メキシコ日本公使が中米5カ国の特命全権公使に任命
1953年10月 外交関係再開
1967年    相互に大使館開設
1971年    我が方大使館実館設置
1998年    ハリケーン災害の人道援助のため、日本は国際緊急援助隊として初めて自衛隊の医療部隊を派遣。約4千人の診察と約3.3万平米の防疫を行った。
2000年~2002年
        日本の無償資金協力(総額22.33億円)によって新たな橋を建設
2005年    「日・中米交流年」で様々なイベント


ホンジュラスは基本的に国交樹立からずっと親日国家で、柔道も盛んに行われている様子。

←そして日本関係の記念切手は、1998年に災害で流出し日本の援助で再建された橋(年表参照)が純ちゃんに先駆けて切手になっている。

親日国家のニュースって日本のマスゴミは取り上げたがらないけど、こういう親日国こそ日本は大事にしなきゃ!

マスコミはもっと大きく取り上げるべき。

グッドタイミングなことに9月7日にホンジュラス代表とサッカー親善試合が宮城スタジアムで開催される。

W杯最終予選での妙チクリンな北朝鮮マンセー報道の10分の一でもいいからホンジュラスを取り上げてみろっ!>日本のマスコミ

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March 28, 2005

祖父へのつぐないアレコレ

更新が遅れてすみません。。。

アジアの真実さん ・知られざる北方領土の戦い ~北海道を守った人々~

---------<引用 始め>------------------------------------------
 ソ連軍は戦後北海道の占領まで計画し、終戦8月15日以降になって北方領土へ攻撃をしてきたのです。そこで勇敢に防衛をしてくれた日本軍と民間人の皆様。彼らのおかげで北海道は守られたのかもしれません。
---------<引用 終り>------------------------------------------

上記のエントリを読んで衝撃をうけた。

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March 11, 2005

大虐殺<--自己都合で利用する奴はクズ

cat_0503_11<--だいふく「・・・辛いニャ・・・」
60年前の昨日(3月10日)は東京大空襲のあった日。
白状します。。。
実はナニゲに避けてました3月6日のNHKスペシャル『東京大空襲 60年目の被災地図』。番組予告を見ただけで胸がキリキリと締め付けられて痛いのに、本編観た日にゃぁ、きっと死んでしまう~。えぇ、えぇ、どーせ私ゃ根性なしの弱虫ですよっ!ふんっ!<--逆切れ

火曜の深夜、何気なくチャンネルをNHKにあわせたら、がぁ~ん。。。再放送やってるし(;_;)
そーだっ!精神的にきつくなったらチャンネル変えよ~なんて半分逃げ腰になりながら、、結局、全部みてしまった。

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